三鷹から上野へ

 昨夕、関西に戻って来た。数日ではあれ、事務所を空けると、なかなか大変である。明日には、通常のペースを取り戻せると良いのだが。
 さて、東京出張の最終日、昨日は、朝のうちに実家を辞去し、バスで吉祥寺まで出て、井の頭公園を抜け、山本有三記念館に行ってみた。



 先週末、S氏からご教示いただいた、この企画展を見るためである。



 以下の写真は、学芸員の方の了承を得て撮影したものである(無断転載不可)。



 そもそも、自身の子どものためという動機があったというのは、なかなか興味深い事実である。
 また、別のパネルにはこう書かれていた。

 有三は、執筆者の文章を、子どもにも理解しやすいようにと心血を注いで校正しました。また、編集実務は、吉野源三郎石井桃子・吉田甲子太郎らの若手に託します。この時の経験により、彼らはその後、編集者・児童文学作家・翻訳者として活躍するようになります。

 じっさいのところ、文章を改変されて怒り出す執筆者も多く、編集者として、山本と彼らの仲介役を果たした吉野や石井は、大変な思いをしたらしい。



 ちなみに、吉野源三郎は、この叢書の仕事が認められたことをきっかけに、その後、岩波書店に入社し、編集者として本格的な仕事をはじめることとなる。



 日本少国民文庫において、吉野は、編集を担当しただけでなく、眼底出血を起こした山本の代役として『君たちはどう生きるか』を執筆している。



 下は、1962年に吉野が山本に宛てた書簡。



 吉野は、手紙の冒頭で、病後の静養生活を見舞ったことで、山本夫妻に疲れが出なかったかを気遣い、その後、二十五年前に受けた恩義について、感謝の言葉をくりかえし述べている。
 そして、面会の際に話題に上った「犬子集」について、「国書目録」編纂部に問い合わせた結果得られた事実を報告し、それを早く伝えるために速達で送りますという一文で手紙は締めくくられていた。
 なんとも編集者らしい、お手本のような手紙である。
 この後、上野に移動し、国際子ども図書館を見学した。「ルーヴル美術館展」の待ち時間100分という立て看板と行列を眺め、公園を横切ったとき、たまたま、炊き出しの光景に遭遇した。数百名の人びとが整列しているさまを目撃し、慄然とし、身の引き締まる思いがした。