私塾のすすめ

 昨日、梅田望夫齋藤孝の対談からなる『私塾のすすめ──ここから創造が生まれる』を読んだ。この半月ほど、さまざまな新刊の新書を読みかけては、いまいち興が乗らずに中断するということをくり返していたのだが、本書に関しては、気持ちよく一気に読み終えることができた。

私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書)

私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書)

 一気に読み終えることができた、というのは、面白かったということである。興味深かった点は多々あるが、まず、齋藤と梅田の問題意識が、抽象および実践の両面においてきちんと呼応しており、それがまた、私自身の関心とも重なるものであったことは、大きかったと思われる。
 冒頭において、ふたりはともに福澤諭吉へのつよいリスペクトにおいて共鳴する。そして、この共感を出発点に、そこから、各々の、これまで経験してきたことや、ふだん考えていることが、まさに対談らしい形で、適度な緊張感と気儘さをもって、語られて行く。
 もちろん、ふたりの資質や性向には大いに異なるところがあり、厳密に言えば、文面上、対話が噛み合っていない箇所も散見される。けれども、梅田の懐の深さと、齋藤の一本気なところが、この対談を、とくに中盤以降、じつに中身の濃いものにしていることは、間違いない。
 紹介したい箇所はたくさんあるが、以下、とくにこのブログを読んでくださっているみなさん、私がちょくちょくお邪魔させていただいているブログやmixi日記を書かれているみなさんと共有したい箇所に絞って、備忘を兼ねて、少々長くなるが、抜き書きしておこうと思う。
 まずは、梅田の発言から。

 人間って案外、小さなことで幸せになれる。朝起きたときに、そのブログに、「この本を読んで感動した」と書いてあった。「じゃあ、私も買いにいってみよう」。それだけでずいぶん人生は潤う。そういうことが、現実におきているんですね。先ほども「炎上」の話をしましたが、そういうふうに幸せにしている、五人か十人がコアメンバーのブログ、ページビュー数百以下のブログで、炎上なんて起こらないですよ。そんなところにやってきて、そのコミュニティを壊そうなんていう人はいないし、オープンなんだけれど、そのブログの存在自体が、ふつうは見つからないから。でもオープンにしていなかったら、そのメンバーは出会えなかったわけです。
 ブログに気に入った言葉とか、このサイトが面白かったよとか、自分が面白いと思ったものについて、なぜ面白いと思ったかを、ただ淡々と書いていく。そうすると、志を同じくする人がつながっていく。別にその人と一緒に会社をやらなければならないというのでもないし、皆それぞれぜんぜん違う生活をしているんだけど、ブログを読んだりコメントを書いたりすることで、生きる力を与えてもらったりする。それが私塾に発展していくケースもあるでしょう。「いいとこどり」をすればいいと思うんですね、ネットの使い方というのは。「いいとこどり」をする道具として、ネットも活用すればいいし、読書もそうだし、言葉を自分のなかに残していくのでも、そうだと思います。
(同書、157-158頁)

 つぎに、齋藤の発言から。

 二十世紀はかなり「飢え」をなくして、物質的には極端に豊かになった時代だと思う一方で、幸福感という意味ではあまりうまくいかなかった時代だと思っています。本来であれば、相当の幸福感を味わっていい状況に二十世紀はあったのに、それができなかった。日本でも、いま二十代の人たち、三十代の人たちが幸福感を実感して充実感にひたっているかというと、明治時代と比べたときに、あの頃のほうが圧倒的に貧しいのですが、当時の人のほうが幸福感は強かったのではないかとも思うんですね。
 ですから、梅田さんの言われた「志向性の共同体」に、二十一世紀の希望を感じます。参加していることそれ自体が幸福感をもたらすもの。学ぶということには、そういう祝祭的幸福感があります。学んでいること自体が幸福だと言い切れます。共に学ぶというのがさらに楽しい。できれば、先に行く先行者、師がいて。それが「私塾」の良さです。
 そうした仲間や師が身近にいないときに、ネット空間でそういうコミュニティに参加して、幸福感を感じることができれば、それは二十世紀との違いを生み出せるのではないかなと思います。
(同書、195-196頁)

 同じく、齋藤の発言から。

 現在の日本で、幕末の適塾のような「私塾」をそのままの形で望むばかりでは懐古的になる。「私塾的関係性」を大量発生的に生み出せる可能性がインターネットにはあります。直接面識のない人との間に、学び合う関係を築く不思議な事態がすでに起こっている。
 学校という公的な場ではない、「私塾的」学びの共同体が、自然発生的に増殖していく様は、植物の増殖を思い起こさせます。みなが心のどこかで求め、しかし現実では満たされることの難しかった「気持ちの通い合う私塾がほしいという思い」つまり「私塾願望」がインターネットの空間で満たされる希望を感じます。
「私塾」の良さは、いつどこでも、二人でもすぐに始められるところです。吉田松陰は、投獄された野山獄で、他の囚人たちに孟子を講義しました。他の囚人の得意分野をお互いに学び合う場を松陰は作ったのです。「獄中私塾」ができるなら、インターネットの世で無数の「ネット私塾」が花開くことは、充分期待できます。
(同書、196頁)

 最後に、梅田さんへ。「おわりに」に書かれている「怒りや無力感」、私なりにですが、痛切に共感します。機会があれば、お目にかかってみたいと願いつつ。ありがとうございました。