たとえば、たまたま、なにかが、うまく行ったとする。それを形式化することによって、再現・反復が可能になる。ただし、形式化じたいは、うまいとか、まずいとか、そんなことには、関わりがない。
三浦綾子という人の書いた、『塩狩峠』という小説がある。
- 作者: 三浦綾子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1973/05/29
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この小説のなかに、こんなくだりがある。
昨日信夫は、「世の光たらん」という題で、熱弁をふるった。
「お互いにこのくり返しのきかない一生を、自分の生命を燃やして生きて行こう。そしてイエス・キリストのみ言葉を掲げて、その光を反射する者となろう。安逸を貪るな。己れに勝て。必要とあらば、いつでも神のために死ねる人間であれ」
そんな話を、一時間ほど信夫は語ったのである。ふだんはおだやかな信夫だが、一度壇上に上がると、全身これ炎のようになる。聞く者の胸に、信夫の言葉は強く迫って止まなかった。
(同書、409頁)
この熱弁の翌日、事件は起こる。
必要とあらば、いつでも神のために死ねる人間であれ──この小説を夢中になって読む者に、おそらくもっとも昂揚感を与えるであろうこのセリフに、私は、違和感を感じる。
それは、イエスの死に、崇高な目的を与えるからである。
遠藤周作という人の書いた、『沈黙』という小説がある。
- 作者: 遠藤周作
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1981/10/19
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この小説のなかに、こんなくだりがある。
その踏絵に私も足をかけた。あの時、この足は凹んだあの人の顔の上にあった。私が幾百回となく思い出した顔の上に。人間が生きている限り、善く美しいものの顔の上に。山中で、放浪の時、牢舎でそれを考えださぬことのなかった顔の上に。人間が生きている限り、善く美しいものの顔の上に。そして生涯愛そうと思った者の顔の上に。その顔は今、踏絵の木のなかで摩滅し凹み、哀しそうな眼をしてこちらを向いている。(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った。
(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」
「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」
(同書、293-294頁)
この後、主人公は、踏絵に足をおろす。
お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ──イエスの死に崇高な目的を与えるのがあやまりならば、ユダの裏切りを忌み嫌うのもまちがいである。
太宰治の「駈込み訴え」において、イエスが「ほんとうに、その人は、生まれて来なかったほうが、よかった」と言ったとき、ユダのイエスに対する愛憎は、頂点に達する。
この箇所について、私は、「自己の中の卑俗な部分を外部に投影し、みずからは純潔で無辜であるとみなすロマンチックな虚偽から、この作家は完全には脱け出していないようです」という、作田啓一の批評を思い出す(これは、『個人主義の運命』という本のなかの、「人間失格」を分析した節にある言葉である)。
ある人が、信仰を表明したとする。そして、信仰を持たない人が、それでは証拠を見せろ、と迫ったとする。そのとき、信仰を持たない人のために、信仰を持つ人は、命を捨てるべきか、否か。
イエスはすでに、大昔に死んでしまった人間である。したがって、その固有名が生き続けるためには、生身の人間による連綿たる証し、ときには犠牲や殉教を必要とするのか、否か。
ところで、子どもの頃、母が、私に、遠藤周作のキリスト教理解は「甘い」と言ったことがある。さらに、母は、「日本的で甘い」と、つけ加えた。
それは、母が、自分の夫、すなわち私の父のことを、私の前で批判するときの言葉と、そっくりだった。このことを思い出すと、私は、今でも、胸が張り裂けそうになる。