『日本語が亡びるとき』を読む

 一昨日、水村美苗の『日本語が亡びるとき』を読了した。同書については、昨秋の刊行後、比較的早い段階で梅田望夫さんがブログで取り上げたこともあり(参照)、また、巷ではいわゆる話題書ということになっているらしく、方々でレビューを読むことができるようだ。
 ただし、私は、あえてそれらを読まずに、さしあたって、自分が感じたことを、後日、自分が読んで判る程度に、最小限記録するだけにとどめたい。
 また、同書に関しては、レビューのたぐいに目を通すだけで、この本を読んだ気になるのは惜しいと、私は考える。
 したがって、以下の記述は、同書を読んでおられない方には、十分に楽しめないかもしれない。そのことについては、あらかじめおことわりしておきたい。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

 まず、ひとこと。良書である。私見では、この本の美質は、以下の三点にある。第一に、立論に世界史的視点が備わっていること。第二に、この本じたいが非常に優れた〈国語〉で書かれていること。そして、第三に、具体的な提言がなされていること。
 第一の美質は、たとえば、夏目漱石の『三四郎』における広田先生についての水村の分析に、もっともよく現れていると思われる。水村はこう書く。

 広田先生が、「偉大なる暗闇」である──あるいは、雑学のかたまりでしかないというのは、日本語で学問=洋学をすることの、世界のなかでの「無意味」によって、構造的に強いられたものなのである。三四郎が感心する広田先生の「呑気」や「太平」や「泰然」。それは、広田先生がもって生まれた資質と切り離せなくとも、そのような資質だけに還元できるものではない。それは、近代という歴史の力関係によって、構造的に強いられたものでもある。(同書、215頁)

 不勉強な私は、広田先生の「偉大なる暗闇」に、こんなにも明晰な光を当てた文章を、これまで読んだことがない。これこそまさしく、〈読まれるべき言葉〉の連鎖の、見事な一例である。
 さらに、第二の美質については、余計な説明は不要であろう(上に抜き書きした文章を読んでいただくだけで、その一端を感じることができるのではないかと思う)。
 ところで、第三の美質について、その提言の内容をめぐって、賛否両論があることは当然である。
 たしかに、英語の習熟は一部の〈選ばれた人〉に任せるべしとする一方で、われわれは、先人達の作ってきた〈日本語〉を、今こそ大切にしなければならない、という結論は、水村本人がそう述べているように、きわめて凡庸なものである。
 およそ、凡庸な方針のもとに失敗を得た場合、その凡庸さについて、事後的に批判するのは容易い。けれども、成功を得た場合、その凡庸さは、まさしく凡庸なものとしてしか遇されないものである。
 たとえば、福沢諭吉の思想について、小林秀雄が指摘しているように、「彼の行文は平易であるが、よく読めば、彼の思想は平易ではない」(「福沢諭吉」『考えるヒント』所収)。けれども、われわれは、しばしば、「福澤諭吉的立身出世」といった安直な名辞を口にする。
 高名な哲学者の名前を持ち出すまでもなく、語り得ないことは語り得ない。況や、過ぎ去ったことをや。そして、それを敢えて語ろうとするのは、歴史家の見果てぬ夢である。
 重要なのは、あくまでも、水村の議論を土台として、われわれが、なにを論じ、なにを見定め、どう進んで行くかということに尽きる。そして、水村の思想もまた、平易なものではない。さらに、「国民国家」の行く末を問うことや、ナショナリズムをめぐる問題が、難問であることは言うまでもない。
 広田先生の「亡びるね」という有名なセリフを含む「三四郎」の一場面をエピグラフに掲げてはじまるこの本は、こんな文章によって締めくくられる。

 私たちが知っていた日本の文学とはこんなものではなかった、私たちが知っていた日本語とはこんなものではなかった。そう信じている人が、小数でも存在している今ならまだ選び直すことができる。選び直すことが、日本語という幸運な歴史を辿った言葉に対する義務であるだけでなく、人類の未来に対する義務だと思えば、なおさら選び直すことができる。
 それでも、もし、日本語が「亡びる」運命にあるとすれば、私たちにできることは、その過程を正視することしかない。
 自分が死にゆくのを正視できるのが、人間の精神の証しであるように。(同書、323頁)

 私は、はたして、自分が死にゆくのを、正視できるだろうか。
 私は、人間はそれをすることができるということを、信じる。
 福音書におけるイエスといった至高の事例を持ち出すまでもなく、たとえば、漱石にとっての子規という友人の存在を思い出すのでも良い。あるいは、われわれは、前へ向かって歩いているときには、周囲にいる人々の間に、そういった証しの遍在を感じているものである。
 なお、日常的に〈国語〉=〈出版語〉というものに密接に関与している一編集者として、自分が受け取った、さまざまな示唆については、しばらくは咀嚼や反芻が必要であり、今後、時間をかけてゆっくり考えて行きたいと思っている。
 以上、はなはだまとまりのないものではあるが、冒頭に挙げた目的は一応達せられたと思うので、この辺で拙文を閉じることとしたい。