マックス・ピカートという人の書いた『沈黙の世界』という本がある。Amazonで調べたら、2000年に増刷されたのを最後に、現在は在庫切れになっているようだ。
今から約二十年前、私が大学に入学した頃は、ピカートの本は、大きな書店に行くと必ず並べられていたものである。『神よりの逃走』『われわれ自身のなかのヒトラー』『ゆるぎなき結婚』『沈黙の世界』──いずれも、みすず書房から出ている錚々たるロングセラーだった。
それが、いつの頃からか、店頭ではめったに見かけなくなった。哲学や思想には流行廃りというものがあるが、ピカートの本がなぜ売れなくなったのか、正確なところはわからない。ちなみに、『沈黙の世界』は、1964年に刊行された本だが、私の手元にあるのは、1977年の第22刷である。
さて、この本の中身を上手に紹介するのは大変難しいので、今回は、書影をスキャンするにとどめるが、一番上と三番目の言葉が、ピカート自身によるものである。
ちなみに、私が大学生だったのは、1987年から1992年までだが、すくなくとも私の周囲では、大陸系の哲学よりも英米系の哲学、分析系の哲学がもてはやされるようになる、そんな時代だった。
そういった流れの中で、私自身も、だんだんと、たとえば『沈黙の世界』について、論理的明晰さを欠く、たんなるエッセイにすぎない、といったような偏見を持つに至った覚えがある。
しかし、最近、久しぶりにページをめくってみて、その印象が一変した。これは、「語り得るもの」と「語り得ないもの」についての、すぐれた智恵の書物なのだ、と感じ直したのである。
哲学というものは、ほんとうに、いろいろな哲学があってよいのだ。あたりまえすぎることなのかもしれないが、そんなことを、最近つくづく感じている。